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聖ヨハネ・ドン・ボスコ証聖者  1月31日  St.Joannes Don Bosco C.
  1815年 - 1888年 青少年教育の守護の聖人



 イタリアのトリノに「孤児の父」と記された一基の墓がある。碑銘は至って簡単であるが、この下に眠る人こそ無数の孤児の慈父と仰がれた有名な聖ドン・ボスコに他ならない、聖会史をひもとく者は誰しも気づくことと思うが、何か聖会の内外に危険が起こると、天主は必ずある聖人を選んでその危機に善処せしめ給い、いかに反対者が主の御計画を阻もうとしても、その思し召しを実現し給うのが常であるが、ドン・ボスコは実に、無神論的哲学や社会主義が行われて不信の嵐が吹きすさび、キリスト教的教育が危機に瀕した現代に、それを擁護すべく天主の御選びを蒙った、質朴にして敬虔な司祭であったのである。

 ヨハネ・ボスコは1815年8月16日北イタリアのベッチという一小村に生まれた。父はフランシスコ・ルイジといい、勤勉にして思慮深い、篤信の士であり、母はマルガリタと呼び、あらゆる善徳を備えた信心深い婦人であった。その家庭は、物質的方面はようやく生活に事欠かぬ程度であったが、精神的方面では極めて恵まれる所豊かであったと言うことが出来よう。
 しかし父フランシスコはふとした風邪が原因で急性肺炎に罹り、まだ34歳という若さでこの世を去った。母マルガリタは夫が息を引き取る時残した「ではこの子供達の事を頼んだぞ、殊に小さいヨハネは・・・・」という言葉をいつまでも忘れず、ヨハネを立派な人物にするため夜も昼も心を砕いた。その教育ぶりの真剣さは、知るほどの人をして「マルガリタこそはキリスト教を奉ずる母達の模範である」と、あまた感嘆せしめたくらいである。されば後年その子ヨハネ・ボスコが児童教育にあの大を成したのも、もとはこの感ずべき母の薫陶があずかって大いに力あったのである。とはいえ彼を導く何よりの力は、勿論天主の聖寵であった。彼がやがて天主から特別の使命を託されるべき事は、その幼時から種々の不思議があったことに依っても知れた。例えば9歳の時彼は始めて主イエズスの御出現に接してその聖母マリアを指導者として与えるという有り難い御言葉を賜ったが、実際後の日の予想以上の輝かしい成功や又その創立したサレジオ会の驚嘆すべき迅速な発展を考えても大いに聖母の御助けのあったことは否めない、と彼自身告白している。

 ヨハネ・ボスコは聖母に殆ど無限の信頼を捧げていた。そして聖寵の導きに従って身を修め、徳の道に精進した。しかし克己禁欲の生活をしながらも、彼は常に快活で、人を喜ばすことを以て己の楽しみとしていた。それで時には子供達の為に自ら綱渡りや手品をして見せる事さえもあったが、人々の霊魂を重んずる心は更に深く、そのために少年時代から司祭として世に立つ望みを抱いていた。

 けれども家が貧しい悲しさに、それを実現することも出来ず、ある司祭に就いてラテン語を学んだが、それすら種々の事情のためしばしば中絶を余儀なくされた。12歳から14歳までの2年間を叔父の許で野良仕事の手伝いに過ごしたなどもその一例である。

 この叔父はヨハネの敬虔な心とその心願とを見抜き、ドン・カロッソという聖人の様な一司祭に託して彼を勉強させた。しかしそのカロッソ師は間もなく心臓麻痺を起こして急逝した。ヨハネはその時側にいたが、なにぶん突然の死とて遺言を聞くいとまもなく、ただわずかに師の手から渡されたものは、一個の手提げ金庫とその鍵だけに過ぎなかったのである。
 それは彼に与えるとの意味であったのであろうか!少なくとも彼がそれを渡したカロッソ師の甥なる人は、そういう意見であった。中には6千リラという大金が入っていた。けれども彼は「私はこの世の宝はいりません。天国さえ失わなければそれで結構です。」と言って、どうしてもそれを受け取らなかった。
 が、この時から彼は勉学を続ける事が出来るようになった。天賦の英才はようやく十分に発揮される機会を得て、彼は素晴らしい好成績をあげ、1835年大神学校に入り、かねての念願の実現に邁進する事になったのである。
 その大神学校に於ける哲学神学研鑽の6年間に、彼の徳が進んだ事は言うまでもあるまい。しかし謙遜な彼は能う限りそれをうわべに現さぬように努めた。
 ヨハネがいよいよ叙階の秘跡に授かったのは1841年、4月5日のことであった。燃えるような熾天使の愛を以て初ミサを捧げた彼は、その後は一層その熱愛を加えるばかりであった。それで一度なりとも彼の御ミサを拝みたいものと、遠路を厭わず彼の教会へ参詣する人も稀ではなかった。
 初ミサの日の晩、母マルガリタは愛子を天主に捧げた嬉しさに、涙にくれながら雄々しく彼を誡めて言った。「お前も今日から天主様のものとなったが、司祭の道は十字架の道だということを片時も忘れないでおくれ。こう言ってもまだ今は腑に落ちないかも知れない。けれどもその内にはきっと思い当たる時が来るよ。これからは私の事は心配せずに、ただ人々の霊魂の為に十分働くように・・・。私はお前がいつも私の為に祈っていてくれることを知っているから、もうそれで満足です・・・。」
 かような母の子と生まれたヨハネが、後年聖人と謳われるようになったのも、蓋し偶然ではあるまい。
 それに彼はトリノに、聖ヨゼフ・カファッソ、聖コトレンゴという二人の親友があった。彼らは彼の使命に早くも気づき博愛事業に一生を捧げるように勧めた。ヨハネはその忠言に従って間もなく身寄りのない孤児を集め、その慈父となって公教要理を教えたり、職業を習わせたりし始めた。当時はまだ孤児院もなく。彼らはヨハネやその母と共に生活していたのである。
 その子供達はトリノ市の人々に「ドン・ボスコの腕白小僧ども」と呼ばれていたが、徳高い聖人の感化を受けて皆素直な善い子に育った。
 ヨハネ・ボスコは又トリノ市の養老院や慈恵病院、刑務所までも訪問し、そこにいる憐れな人々を慰め、助け、天主の御許に導いた。
 1864年に孤児院が建てられてからは、収容児の数は年々増える一方であった。ボスコは子供達に対して目に見えぬ不思議な力を持っているらしく、どんな腕白な子でも思いのままに統御する事が出来た。
 しかし彼がかって母に言われた通り、まさしく司祭の道は十字架の道であった。正しい彼は悪人の怨みを受けて、前後7回も殺されようとしたことがあった。けれどもその都度何処からともなく猛犬が現れて悪人に飛びかかるなど不思議な事があって難を免れるを得たのである。

 ヨハネ・ボスコはその事業の発展継続の為一つの修道会を起こして「サレジオの聖フランシスコの信心会」と名づけ、1859年12月18日数人の弟子達を連れて時の教皇ピオ9世に謁見し、その認可を願った。更に1875年8月5日にはサレジオの修道女会をも創立した。この二つの修道会は人々にキリスト教的教育を施して天国の永福へ導き、又職業を授けてこの世の幸福をも恵んだ。実際この修道会を通じてどれだけ社会が益を得、どれだけ多数の人が恩恵を蒙ったかは計り知れないものがある。教皇レオ13世がヨハネ・ドン・ボスコに向かって「全聖会、全世界は、貴下を、貴下の事業を、貴下の修道会を仰ぎ見て、唯々讃嘆の念に打たれるばかりである。」と言われたのも決して誉めすぎではない。

 聖人は1888年の1月31日朝、御告げの鐘の鳴り渡る時、静かに瞑目した。しかし、その数々の功績は永久に光芒を失う時なく、今もその偉大な事業は、彼の愛子なるサレジオ会員の手で立派に継続され、我が国にもその修道会が活躍している。

教訓

 我等も、聖ヨハネ・ドン・ボスコに倣って聖母への信頼と従順の念を深め、又その御導きに依って他人、殊に孤児その他不幸な人々の為に力を尽くさなければならない。